2020/06/01
2020.06 京はやましろ、川の町…かつての兀(ハゲ)山、今に残る花札『坊主』の鷹峯連峰
名山と言っても高くもないし、連峰と言っても3つの峰が連なっているに過ぎない。鷹ヶ峰、鷲ヶ峰そして天ヶ峰である。京都の奥座敷ともいうべき北山の入り口にあって、右大文字山と光悦寺や源光庵の間に位置している。三山とも300m前後の低い山であるが、登るというよりはその形の良さを眺めて楽しむ山として、親しまれている。
かつて京都が戦乱の地であった頃、暖房用や建築資材として洛中に近いこの山の木々は伐採されていたのだろうか、その頃は兀(ハゲ)山にススキが生い茂り、事実『兀山』と呼称されていたという。戦乱が治まり太平の世になったころ、刀工士で書家・陶芸家でもあったスーパーアーティストの本阿弥光悦が、この兀山の麓一帯の広大な地を家康より賜り、そこに絵師や表具師、木工や陶芸の工芸職人たちを集めて芸術村ともいうべき集落を作った。
その中には若き絵師俵屋宗達などもいて、お互いに啓発し合いながら技を磨き、多くの作家や作品を世に出してきた。当然手慰みの遊び心も湧いてきて、ポルトガルから輸入されて当時流行り出したウンスンカルタやその日本バージョン『花札』に興じることもあっただろう。そこは絵師や工芸家の集まり、自ら描き制作もする。鷹峯の丸い山から上る、あの8月(旧暦)の満月の絵札―通称『坊主』も描かれ、真赤な空を背景にススキの穂が揺れる黒々とした山から白い満月が昇るという鮮やかな絵札が誕生したに違いない。この鷹峯から上る名月の鑑賞ポイントは今も光悦寺。そして、今に伝わる琳派の若き絵師たちがここに集い、育っていったからである。
鷹ヶ峰、鷲ヶ峰、天ヶ峰と立派な名前をもらった三山の麓には、光悦が住まっていた跡に光悦寺がある。コロナ騒ぎでめっきり外国人観光客が来なくなった静かな庭苑を訪れると、新緑の若葉と上品な光悦垣に囲まれて光悦さんは眠っていた。(M)